
原点のフランス料理店!東広島のウッドハウス
人生初のアルバイト店であるウッドハウス(東広島市八本松)。田舎の店なのもので、ホールの社員はいなくて、ワイン頼まれると分からないのが悔しくて勉強始めたのがソムリエになるキッカケ。
学生時代の初心を忘れないためにも、この記事を書いてみました。

ウッドハウスとは

ウッドハウスは広島県東広島市八本松にある、1975年から続くフランス料理店、オーナーは蔵田英樹氏、シェフは石藤敏氏です。
「山の中のフランス」がキャッチコピーの通り、JRの駅や国道2号線から徒歩5分の位置になりながら、山の中にいるような日常の喧騒を忘れるレストランです。
※この記事を書くのに、調べて分かったのですが、八本松駅は海抜255mで山陽本線で最も高い駅だそうで、そんな山の中のフランスって意味なのかもしれません
私が大学1年生から卒業までの4年間アルバイトをしたお店で、飲食業・ワイン業界に入った店、まさに私の原点の店です。
店内から見える庭はゴルフが趣味の蔵田オーナーが、八本松カントリーのショートホールを模して造ったものです。

石藤シェフは、リーガロイヤルホテル広島の前身である広島グランドホテルに入社後、20代のうちに単身フランスで修行した経験のある方で、今のようにフランスで修行する機会が少ない時代に、そのようなことをした行動力には尊敬します。
店内のホール席は6席で、それぞれ4,2,4,4,4,4名掛けです。
アルバイトをしていた時の記憶では、多忙時やクリスマス営業の時だけ、もう少し席を分けて2名掛けを作っていた気がします。
ちなみに、今回座った4番テーブルとそのお隣の6番テーブルが窓際で、予約順に配席するテーブルです。
店内に入ってホールと反対側には扉付きの個室があります。
アルバイトをしていたころは個室料は不要でしたが、当時わざわざ個室を指定するお客様は常連客や企業や家族の小団体でした。


でも、あの広さの個室を2名で貸切ることができるのかはお店に尋ねてみてください。
当時は、ホールが満席のときやクリスマスには、個室に3卓つくって、追加でお客様を入れていたくらいの広さなんです。
あと、フランス料理の文化で考えると、ホール席がおすすめ。暖炉が見える席って上席ですし、個室よりホールのほうが雰囲気を楽しめる店は多く、ウッドハウスはまさにそうです。
ホールには暖炉があります。薪ストーブではなく、本当に暖炉で、アルバイト時代には私も薪をいれたものです。

薪と言っても、樹の幹をぶった切ったものをズドンと置いて周りに着火用の薪を少し置くので、大きな木がズブズブと営業中ずっと燃えています。
すっごく雰囲気が良いんです。
ちなみに、先ほどお話したフランス料理文化でいうと暖炉前の席は良い席、いわゆる上座です。
それとレトロな電話ボックスもすっごくおしゃれです。
当時は、ここから電話をかけるお客様も実際にいらっしゃいましたが、大学生の私も2年か3年の時にPHSを持った時代、だんだんと電話をかける人は減っていました。
庭が見えて、暖炉があって電話ボックスの前を通るホールの席がやっぱりおすすめです。
ウッドハウスのメニュー
料理はコースが主体。ネットで情報収集すると今は多分こんな感じ。
- ランチ
- 3,000円
- 6,000円
- 8,000円
- 10,000円
- ディナー
- 6,000円
- 8,000円
- 10,000円

あと、単品でピラフやグラタンがあって、これも結構出ていました。
単品料理の記憶については、後ほどアルバイト時代の話の中で少し触れてみようと思います。
2024年8月にうかがった際のディナーコースも写真付きでご紹介しようと思うのですが、話の流れとして、20年弱ぶりに訪問した話の中で紹介します。
料理の写真だけ見たい方は、こちらをクリックで私の訪問話を飛ばしてスクロールしますのでご覧ください。
2024年、十数年ぶりに味わうウッドハウスのコース料理
Facebookで飲食業の先輩が『今年はこの世界に入って〇周年』と投稿していて、

と気づきました。
人生初のアルバイトだったウッドハウスは私の一つ年上で創業49年。
田舎の店なのもので、ホールの社員はいなくて、ワイン頼まれるとわからなくて、悔しくて勉強始めたのが今ソムリエをしているキッカケ。
創業49年の店で後継者がいらっしゃるかどうか分からないので、行けるときに行かないと…という思いが出てきました。
蔵田オーナーと石藤シェフは、確か同い年でお二人とも80歳くらいになっているはず。
バイトしていたとき50歳だったような気がします(創業時に30歳だったはず)。

ちょうど今年は妻と出会って20年なので、その記念日利用で行こうかな。
などと思っていたのですが、ひょんなことから息子と2人旅をすることになりました。
夏の暑い日、ウッドハウスに電話をします。
「ウッドです。」と男性の声(違う文言だったかもしれないけど私の大学時代の社長の電話の出方を書きました)
「もしもし、予約をお願いしたいのですが・・・寺井と申します」
「もしかして、うちでアルバイトしていた寺井君ですか?」と!
「はい!え?チーフですか?」
「蔵田です」
「え~社長ですか。お久しぶりです。」(20年前と少し声の感じが違っていたのでチーフかと思った)
と、私のことを覚えてくれていました!嬉しい!!
コースはおまかせにして、メインは牛以外を希望しました。ホテルはどこに泊まる予定か尋ねられたり、少し世間話をして、当日を楽しみに電話を切りました。

その数週間後、店を訪れると、当日は社長とチーフ(蔵田オーナーと石藤シェフ)が出迎えてくださり、女性スタッフの方もいらっしゃいました。
私がいたころは、チーフの他に社員のコックさんが3人、ホールは学生アルバイト3~4人でやっていたなぁ・・・としみじみ。

最初に店内を懐かしく、うろうろと歩かせてもらい部屋の写真を撮ったり、少し話をして食事へ。
今日のコースはこんな感じです。
前菜盛合わせは、
- 真ん中にキャロットラペ
- セロリラブのレムラード
- 卵の燻製
- ベビーホタテの燻製(アレ?両方燻製だっけ?燻製2つ使うかな?)
- アボカド&サーモン
- コリンキーの和風煮
- トマトにターメリックソース
- フォワグラのパテ(昔はお酒の風味のジュワっとしたパテでしたが、今回はFGの風味しつつもゴロっとお肉感が。鹿っぽい風味もしたし鹿肉を粗めのミンチにして練り込んでいるのかな?)
でした。
メインは猪(イノシシ)を用意してくれていました!これ、息子とめっちゃ美味しいと言いながら食べ、とっても良い思い出になりました。
食事を終えるころには他のお客様もお帰りになっていたので、社長とチーフと一緒に写真を撮って、息子も入れて撮って。
本当に帰るのが名残り惜しくて、私多分、結構話していたのですが、社長が「分かった、分かった、寺井もう帰れーや(笑)」と、昔のままの接し方をしてくれたのも嬉しかったです^^
そして帰る前に、息子が「ちょっと待って、あれ電話してみたい」と^^
「いいよ、じゃあ、お母さんに電話してみてん」
と言い、お金を渡しました。でも、つながらないみたい。
「ツーってなってる?」と聞くと「なっていない」と。
もう、電話もつながっていないのかなと言って受話器を置くと、チャリンとお金が落ちてきました。
注文したワイン
ワインは、リストにあるものと別に在庫を勝手に見て良いよ~という許可が(笑)
結構悩んだあげく、これっていくらですか?と聞いたワインがこちら。
すると、「これいつ入れたんだっけ、こんな在庫あったっけ、いくらにしようか」と裏でザワザワ。
あー、これも懐かしい。ホテルマン1年目に、ホテルの同期のコックと3人で食べにきたとき、在庫に眠っていたパヴィヨン・ブランを飲みたいって言ったんです。

多分、アルバイトをしていた私以外は存在を知らなかったワイン。シャトー・マルゴーというメドック格付け1級の超高級ワインがあるのですが、そのワイナリーが作る白ワインで、ボルドー辛口白の最高峰の1つです。
この時も注文すると、チーフやコックさん、当時いたホールの女性社員含め、裏で今回と同じようなザワザワが^^
結局2万円で飲んだのですが、この時のパヴィヨン・ブランが、すっごく美味しくて、今までで1,2を争うくらい記憶に残っている白ワインです。
実は、最初の印象は、ハーブ香と熟成による香りの競演がグラスに注がれた直後は、ちょっとチグハグで。
なんだ?カビっぽい?とも思うほど(今ならカマンベールなどと表現できるのかも)、ハーブの新鮮さと熟成の茶色い香りがマッチしなかったんです。
でも、少し時間が経つと、パインやパッションフルーツのようなトロピカルな風味も感じるようになり、さらに時間が経つと、茶色いスパイスのような熟成による複雑味満載へと変化しました。こんなに変化する白は初めてでした。

パヴィヨン・ブランの最高のヴィンテージに数えられています。ソーヴィニヨンはベジタル系のアロマが品種特有の香りとは言われますが、この品種がそれ以上の香りを生み出すに十分なレベルの素晴らしい熟度を進めることができた恐らく初めてのヴィンテージでしょう。さらには1989年ヴィンテージから、白ぶどう区画に対する収量管理を厳格化。以来、30ヘクトリットル/ヘクタールの基準が守られています。このような低収量での生産が、天候さえ許せば、凝縮性と熟度の高いぶどう栽培を可能にします。今日、パヴィヨン・ブラン1989年は紛れもなく熟成の頂点に達しており、素晴らしい味わいです。数年後もとても美味しく飲める状態にとどまるとは思いますが、とにかく今飲むようにおすすめします。(2018年10月)
https://www.chateau-margaux.com/jp/vins/pavillon-blanc-du-chateau-margaux/1989
さて、話は息子とのディナーに戻って、いくらか分からないけど、とりあえず飲めと指示がきました(笑)。

でも、まあ飲めと言われ、結局1人で全部飲めませんでしたが、美味しくいただきました。もっともっと熟成させて良い偉大さでした。
食事が終わり、ワイン1人では飲みきれなかったので、チーフに一緒に飲まないか聞いても、「持って帰れ」とのこと。
歳でお酒は飲めなくなったらしい。チーフ、昔は毎日仕事終わりにビールを飲んでたんだよなぁ(ちゃんと自分で飲んだのを売り上げて、払っていた)。一緒に飲めなかったのが残念。


と思いながら、ひとまずコルクを指し直して翌日空港に持って行ってみました。すると・・・飲みかけワイン、飛行機に持ち込めました~!!
で、結局、自宅まで持って帰り、妻と飲むことができました^^
こんな私の思い出のウッドハウス。
サービスは私の学生時代と同様にプロのサービスマンがいるわけではないのですが、東広島で1975年から続くのはやっぱり美味しいから。
ぜひ皆さんも行ってみてください。
もう少しウッドハウスの話をしても良いですか?
ここからは私が飲食業をスタートさせた時代のウッドハウスの思い出話をしたいと思います。
私がアルバイトをしていた1995-1999年のウッドハウス

はじめてのアルバイトが非日常空間
大学に入り、料理に興味を持っていた私は飲食店バイトを探しました。料理を作るバイトをしたいと思っていたんです。
生意気だったので、東広島で最も高級そうなお店で働いてみたいと思いました。
アルバイトの求人雑誌を買ってみたものの(当時はネットはもちろんなかったし、求人雑誌は有料のものしかなかった)、広島市の求人は載っていても、東広島市はほとんどありません。
当時の東広島市は、広大が広島市から完全に移って、だんだん大きくなっている最中だったものの、まだまだお店は少なかったんです。
そこでグルメ雑誌を買い、東広島市で中華料理とフランス料理に高級そうな店があるぞとわかりました。
原付バイクに乗って、両方の店の目の前まで行ってみたのですが、ウッドハウスは異次元の雰囲気、学生からすると夢のような雰囲気でした。

ここで働いてみたい!と思い、自宅に戻りすぐに電話をしました。
「アルバイトをしたくて電話をしました。」
「広大生か?履歴書を書いて1度店までおいで。」
後から知ったのですが、電話に出たのは蔵田社長で、いきなりアルバイトをしたいと電話をしてきたのは私が初めてで、この時点で採用すると決めていたそうです。
さて、料理がしたくて、電話した私。でも、さすがに料理はさせてもらえずホールの担当に。
今でこそ言いますが、面接で社長に「表(おもて)をしてもらうから」と言われた時、世間知らずの私は、外でお客さんを呼び込むような仕事をしないといけないのかと思ったのです。これ、30年間誰にも言ったことがなかったのですが、息子に思い出話としてぽろっと言っちゃいました(笑)。

こうして、私のウェイター生活が始まりました。
店内は、外から見たままの、いえ、それ以上の非日常空間で、こんな素敵な店で働いてしまったから、理学部に通っていたにも関わらず、飲食業の道に進んだのかもしれません。
はじめてのワインの勉強
1995年のウッドハウスには、社長、チーフ、社員のコック3人のほかに、ホールのアルバイトは広大の先輩が2人(男性のグランドホッケー部の4年生と2年生の男性)と、洗い場に別の大学に通っていた4年生の女性がいました。
この1つ年上の男性の先輩(柴田さんと言います)は大学院にいったので、この時から私が卒業するまでずっと一緒にアルバイトをした仲です。

私がバイトを始めたのは大学1年の11月くらいからだったと思うのですが、入ってすぐに12月の忙しい時期になるので、超ピッチでいろんなことを覚えた記憶があります。
4月がきて、大学2年になると、ある程度のバイトの仕事は出来るようになっていたのですが、お客様にワインが飲みたいと言われると、裏のコックさんを呼びに行かなければなりません。
これがめっちゃ悔しくて。
お客からすると、自分も同じプロなはずなのに、コックさんを呼びに行くなんて・・・と思っていました。(大人になった今では、どう見てもこの子は学生バイトだろうって思われていると分かるけど当時は分からなかった^^;)
ワインの本を買って、店のリストにあるワインを調べました。あと、月に1本は酒屋さんでワインを買うようにしました。
この頃は既に、グラスワインをサービスする(注ぐ)ことはさせてもらっていたのですが、ボトルサービスができるように、ソムリエナイフでワインを開ける練習をして、リストのワインの銘柄を調べて覚えました。
学生バイト同士は、そこそこ忙しい月でないと同じ日にバイトに入る機会は少ないのですが、久しぶりにバイトで一緒になった柴田さんが、
「お前、ワインリストお客さんに持って行ってるらしいな。
実は、俺もワインリスト持っていくまでは出来んけど、注文受けたワインをお客さんの前で開けるのは、やり始めたんや。」(関西人)
と言ってきました、ちょうど二人とも同じ時期にもっとワインを勉強しないといけないと思って行動し始めていたようです。
それから自然と、ひと月かふた月に一回程度、私の部屋で二人でワイン飲むようになり、その後、コックの社員の男性(Hさん)と、あとから入ってきた私と同い年の広大の女の子のバイト(Uさん)と4人で飲んで勉強したりするようになりました。

いつしか、コックさん達よりワインのことは詳しくなり、私が大学4年、柴田さんが大学院1年の時には、結構、私たちにホールのことは任せてもらうようになっていました。
当時、庭にパラソル付きのテーブルを借りてきて設置し、ガーデンウェディングをすることとかもあって、2人でテーブル組んでシルバーセットして結構しんどかったけど、やりがいあったなぁ。
もちろん、社員のコックさん達のほうが私たちの何倍もやっていたはずなんだけど、なにせ生意気な学生なんで、気分はもう主力だったんです。本当、何もわかっていない若造でした(笑)
料理の思い出
そうそう、さっきコース料理と別にアラカルトがあったと書きました。
ピラフとかグラタンのような洋食的メニューもあったのですが、ピラフもグラタンもフランス発祥の料理ですし、スモークサーモンやエスカルゴ、タンシチューやビーフシチュー、あとチキンの赤ブドウ酒ってメニューがあったんですけど、今から思うと、どれもフランスの伝統料理なんですよね。
それと、今の時代よりもアラカルトって出ていたなぁって思います。今の時代、フランス料理でコース以外を食べる人も減っているでしょうし、お店もコースのみにしていることが多いです。
あと、ピラフの皿がめっちゃ熱いのですが、アルバイトのうちの1人が「熱いけど、落とすわけにはいかないって、いつも思う」って言ってたのですが、ある日とうとう熱すぎて落としてしまったって、残念そうな顔で私に言ってきたのを今でも覚えています。熱い皿を持ち慣れた今なら、なんてことないのかもしれませんが、当時は熱かったなぁ。
他にアラカルトって何があったっけ?と思って、ネットでウッドハウスを色々検索していると、メニューを撮影しているYoutubeを見つけました。
すると当時は全く見ていなかったフランス語が併記してあり、Coq au vin チキンの赤ブドウ酒、Langue de boeuf bourguignon タンシチューって書いてあって、フランス語で料理が分かる今なら、ブルゴーニュの地方料理だって分かります。
で、そのメニューを見ていてふと思いました。
当時『スッポンのスープ』があった気がするんです。でも、今のメニューには載っていない・・・
「アレ?違ったっけ??」って思っていたので、気になって、ウッドハウスに予約するときに社長に聞いてみたら、「今はもうやっていないんよ。動物愛護とか色んな関係で。時代じゃのう。」と言っていました。あるなら注文したかったのですが、残念。
あと2つ、もう一度食べたいものがあって、1つは賄いのカレー(これは柴田さんとの再会のところで書きます)、もう1つが秋に1万円コースに使っていた肉のソース。
当時、秋くらいに香り高いキノコのソースをチーフが仕込んでいたんです。確か裏(勝手口の外)にキノコを干すことから始める手間のかかったソース。
卒業して約10年も経つと香りや味のイメージは覚えているのに名前が思い出せず、「あれ?あのソースのキノコって何だったっけなぁ??」って思っていました。

結婚5周年くらいに、Hさんから結婚祝いにもらった私の生まれ年のワインを飲んだので、そのお礼にHさんと何年ぶりかという電話をし、そこで「あのキノコって、何でしたっけ?」って
聞いたことがあります。
その正体は香茸(こうたけ)。
独特の香りと風味で知られる高級きのこ。人工栽培ができないため希少性が高く、収穫時期も短い。松茸よりも高値で取引されることもある。
豊洲市場のサイトには、「洋食向けの人気が上昇、価格も以前の2倍」という記載も。
ウッドハウス以後、飲食の現場で使ったことないので、改めてグーグル検索してみた結果が上記です。
香茸のソースは、今から思うとウッドハウスのスペシャリテと言えるソースです。
大学時代かホテル時代に見たウッドハウスがテレビに紹介されている映像で知ったのですが、昔、チーフと社長でソースの味でズレがあって、忙しくて疲れてくるとソースの味が濃くなると社長が指摘。その指定から石藤チーフが、香り高く甘味を伴う香茸のソースを開発したとか。
Hさんは、
「ほーかほーか、よー使っとったこと覚えとるのぉ。嬉しいわぁ、覚えとってくれて。」
と言ってくれました。名前は忘れていましたけどね(笑)。

今は高級品すぎて使えなかったりするのかなぁ?
と思って、これも店で聞いてみると、社長は
「おー、よー覚えとるのぉ。チーフがいっつも仕込んどったのぉ。あれも高級品になりすぎてのぉ。」
と言っていたのですが、チーフに香茸はもうあまり使えないんですねと言うと
「いやぁ、仕込むよ」
と(笑)。この感じも懐かしい( *´艸`) どっちが本当かも分かりませんw


忘れられない社長の言葉
今でも全然出来ていないのですが、この店で一番勉強になったことがあります。
それはいくつかの社長の言葉。
忘年会の翌日、出勤した際、

と教えてくれたこと。
ソムリエになりたいという私の言葉を聞いて、「お前、広大理学部まで入れてもらって…」と言いながらも後押しをしてくれ、人を紹介してくれたりと連れて行ってもらって、就職も決まったあとで、また私はいつものように「おはようございます」と出勤して(ダメダメですね)、

と教えてくれたこと。(私の中に、東京のソムリエ専門学校に行こか迷っている中、就職が決まって、モヤモヤしていたのもある。今から思うと本当に反省)
私が、ソムリエとして、自分の力で切り開いていきたいというような生意気なことを言った時、

とおっしゃって、今なら本当にみんなのおかげの意味が分かります。
料理やワインのことよりも、ずっと覚えているし、まだまだ出来ていないけど、私の人生にとって大事だと思っていることです。
私も若い子たちに言う側になって、すごく分かりますが、こういうことを言うのって面倒くさい。嫌がられるだろうし、反発されるかもだし、伝わらない可能性もあるし。言わないほうがラクですし、どうでも良い相手には言わない。
それを、アルバイト、しかも近いうちに辞めることが分かっているアルバイトに、言ってくれるなんて本当に有難いですし、可愛がってもらっていたんだなと思います。
結婚する妻を紹介しに行った
卒業してホテルに就職してからは、多分4回ほど食べに行きました。
- 同期のコック2人と(1999年)
- 可愛がっていた後輩のアルバイトの退職時(2000年)
- 師匠が異動するとき(2002年)
- ホテルをやめるとき(2004年)
1の時は、先ほど書いたように、パヴィヨン・ブランが素晴らしく、過去の記憶の中でも最高峰の白だと思っています。
2は彼と私の生まれ年のワインを持ち込みさせてもらいました。
3は師匠と結構ワイン飲んだ覚えが。この時最後にチーフが「食後酒飲むか?」とDRCのマールを見せてくれたんです!めっちゃ飲みたかったのですが、もう飲めないくらいワイン飲んでいたので遠慮というか、断念しました。
今回20年ぶりにウッドハウスに行って、「さすがにもう残っていないよなぁ」と物色しましたが、ありませんでした(笑)
4は、ホテル退職して広島を出る最後のご挨拶に1人で。
私のバイト時代に一緒にワイン勉強していたコックのHさんが、「ピーク過ぎているかもしれないけど」と言いながら熟成した私物のミュスカデを開けてくれたのですが、これがめっちゃ良かったんです。
一般的には早飲みワインと言われるミュスカデですが、熟成ミュスカデめちゃ良いじゃん!って。

ある時、コンサル先レストランのスタッフがワイン買いに来たときも、ミュスカデ古酒を不安半分興味半分で買ったのですが、後日、ボルドーの高級赤よりも全員ミュスカデ古酒に感動したと言っていました。
そのあとは、広島を離れたのですが、入籍を済ませたのちの夏休み(2006年8月23日)にその報告と妻を紹介しにウッドハウスを訪れました。
午前中に妻が卒業した大学へ挨拶に行ったので、ウッドハウスのランチタイムには間に合わず・・・とりあえず、入店前に写真を撮ります。

そして、店に入ると、社長が出迎えてくれました。そして、その奥で「よお!」と声が・・・
アルバイト時代の先輩柴田さんと感動の再会
「ええ!」
驚きました。一緒にアルバイトをしていた柴田さんが!!
柴田さんは、私が辞めたあとにアルバイトに入った広大生の女性(Uさんとは別の女性)と結婚し、その後、福井県に住んでいることは知っていたのですが、奥さんの実家がある東広島に夏休みで帰省していたのです。

と!妻は何度も「すごい、すごい」と言っていました。
柴田さんとは、アルバイト、ワインだけでなく、二人でフランスにも言った仲なんです。私の初海外旅行。今から思うと、ネットもない時代に、大学生協で本買って、飛行機や向こうの列車のチケットとか全部私がとって、二人でツアーでもなく一緒に行ったなぁ。
柴田さんのおばさんがフランスに住んでたから、そこ尋ね数日パリ観光して、二人でサンヴァンサン(ワインの神様)のお祭りにパリから日帰りで二日連続で行って、柴田さんはパリに戻って、私はそのままリヨンに行って、日本に帰るのは別々の日でした。
私は妻に、「フランスで二回も柴田さんと、はぐれてさぁ。」と言って説明しました。
1回目は、サンヴァンサンの祭りの初日、シャブリのお祭りの場所から列車の駅までのバスを待つのですが、すごい人込み。で、バスに乗っているときに、扉が閉まって・・・私だけとり残されたんです。

ワインで酔っ払っている私は、何を思ったか、バス待っても列車に間に合わないも・・・よし!歩こう!!と駅の場所もよく分からないまま歩きだしてしまって(汗)。
日本人が1人で辺鄙な場所を歩いているのを不信に思った車の運転している兄ちゃんが「こんなとこ一人で歩いて、どこに行っているんだ?」と。駅だと答えると、場所分かるのか?歩くのか?遠いぞ!みたいなことを言って、乗れ!乗れ!と。
これ、めっちゃ危険なのですが、車に乗って、駅まで連れて行ってもらえました。いやぁ、ホント今から考えるとリスキーだけど、でも乗っていなかったら駅までたどりつけていたんだろうか?(^^ゞ
この時のことを妻に、「柴田さんも駅で待っていてくれてさぁ」と言うと、柴田さんが

って!なんじゃ、そりゃー。

で、そのまま妻に、ホント柴田さんって、こんな人でさぁ。と話をつづけました。
それからおばさんの家の最寄り駅までついたんだけど、バスで帰るのに少し待つから、歩いて帰ろうと柴田さんが言い出して、私はバスでしか通っていない道なんで分からなかったんだけど、柴田さんが分かるというから着いていったんだけど、酔って疲れて私が歩くのが遅くなって・・・角を曲がったら柴田さんがいない。
待ってって言ったのにさぁって妻に言うと、柴田さんは「いや、お前は待ってとは言ってない!言っていたら俺も待った。」と。
確かに、私も待ってと言わなかったな・・・(^^ゞ
で、はぐれて、歩いていると全然分からなくなって、行き止まりの家に行くと、庭のフランス人男性が、「そこで何している」と。
道に迷ったというと、奥さんも出てきて、こんな住宅街でどこに行くんだ?という話になり、ちゃんと住所はメモしていたので、それを見せると、車に乗れということになり、なんとか柴田さんのおばさんの家まで送ってもらえたんです。
そーんな思い出話を妻も交えて3人でして、アルバイトの時の話とかしている中、私が今でも最も「もう一度食べたいカレー」と思っている、ウッドの賄いカレーの話になり、柴田さんも「そーやろ!俺も何度かここ遊びに来て、賄いも食わせてもらっているんやけど、まだカレーに当たらんのや」って話していたら、奥から、この前の賄いのカレーがまだちょっとあるから食えと。
食べてみたら、美味しい!・・・んだけど、2人でベストじゃないな、また今度いつか食べさせてもらおうと話したのでした(残り物のスープとか、肉とかごちゃまぜカレーなんで、日によって味が違う)
ちなみに、後日談で、それから何か月も経って、私が不在時に妻が自宅で明石家さんまさんが司会のテレビを見ていると、恐竜博物館にこどもが行ってインタビューしたりする場面があって、その受け答えをしているのが、柴田さんだった!とビデオを録画してくれていました。
私も見て、柴田さんにもメールしました。
実は、柴田さんは私がソムリエになりたいと言ったとき、自分もワイン関係の仕事も興味がある。でもソムリエよりは生産者になりたい。それか以前から思っている恐竜の発掘とかの仕事って言っていたんです。
私の卒業後は、日本でお金を貯めてアメリカの大学へ行って、発掘作業にも加わり、お金がなくなったら日本に帰ってきて、また貯めてアメリカへという生活もしていました。
そして、さっき書いたように今ではその夢をかなえて、発掘関係、恐竜関係の仕事をしています。(柴田さんが載っているサイト↓)
https://www.dinosaur.pref.fukui.jp/museum/staff.html
https://ashitane.edutown.jp/job/workers/%E6%9F%B4%E7%94%B0%E6%AD%A3%E8%BC%9D/
https://www.fpu.ac.jp/faculty_members/sdino.html
妻が、大学時代の夢を柴田さんも私もかなえて凄いねと言ってくれましたが、本当に学生時代になりたいと思っていた仕事で食べていけるだけでなく、ネット上にお互い名前や顔が出るようになれて、ちょっとは成長できたかなって思います。
これを読んでいる中に、もし私のようにソムリエになりたいと思っている人がいて、この柴田さんの活動が皆さんの背中を押すようなキッカケになれば嬉しいです。
ちなみに、私がアルバイトをやめる時、この柴田さんと私の同級生のアルバイトのUさんに店の送別会と別に送別会をしてもらい、居酒屋からUさんの家に移りワインを飲みました。
フランス、ブルゴーニュで一緒のワインツアーのマダムがカメラを持ってきてなかったので、僕らが撮ってあげて写真送ったお礼のワインを3人で飲もうということになったんです。


この二次会で、柴田さんとUさんが、寺井はいきなりアルバイトしたいと電話してきて、自分でワインの勉強はじめて、ワイン勉強飲み会を3人でして、そうかと思うと1人で広島市のワイン会に参加しに行って、夏休みには三次ワイナリーに朝から毎日ぶどうの摘み取りに行って、全部自分で切り開いている。
自分たちは、先輩の紹介でただバウトを始めただけだから、お前は凄いと言ってもらいました。
若い皆さん、自慢のように聞こえるかもしれませんが、柴田さんも私も行動して今があります。やってみましょう^^
寺井が飲食業に就く原点
話のついでに、私が飲食業についた初めの第一歩はウッドハウスなんですが、その昔の原点(家庭科の授業)と、かなり影響をうけた「漫画ソムリエ」、「雑誌ブルータス」についての話もしようかなと思います。ここはウッドハウスとは関係ない話なので、読みたい方だけ「開く」で読んでみてください。
ウッドハウスよ永遠あれ
私の青春時代の思い出の詰まったウッドハウス。このころから仕事人間だったのかな、夕方に友達と家でゲームをしていても、「今日、今から入れない?」って電話があると、飛んで行ったもので、本当に楽しく仕事をしました。

ディナー食べたあと、社長が車でホテルまで送ってくれたのですが、「じゃあ、明日は朝7:30にホテルまで迎えに来るな。」と言うのです。
いや!そんな朝早くから来てもらうのも申し訳ないし、いいですよって言っても、大丈夫じゃけぇと言って・・・・。
結局、朝7:30に来てくれて西条駅まで車で送ってくれたんです。
自分が逆の立場でも、嬉しくてそうなるかなぁなんて思いました。
最後、送ってもらっている間に、昔のことや、同時期に働いていたアルバイトたちの話を少しして、どうしているかなぁなんていう話をしていたのですが、私が意を決して、ウッドハウスの跡取りについて尋ねると、「おらんのよ。もったいないけど、このまま終わりじゃろーのー。」と。
本気で私にお金と人脈があったら・・・(継いで、こっちで料理を作ってくれるコックとサービスマンを探して雇うのに)と思ったものです。
社長とチーフがお元気なうちに、もう一度行きたい。私は今年(2025年)で、バイトして30周年。昔のバイト仲間と訪れたい。あと、香茸ソースのメインディッシュ食べたい。
そんな想いでいっぱいです。社長、チーフ、その時まで元気に続けておいてくださいね!
ウッドハウスよ!永遠あれ!!(2025/2/28 ウッドハウス閉店しました)
この記事を書いている人
OFFICE GO SEE代表 / プレゼントワインショップ®オーナーソムリエ
寺井 剛史(てらい つよし)

大学生のころのアルバイトがきっかけでソムリエを目指す。
ホテル入社後、『サービス、接客』の虜に。2004年、日本では珍しいフリーのソムリエとして独立。
多数の飲食・小売店でサービス向上による売上増のコンサルティング事例アリ。
「ワインを贈りたいけどワイン選びが分からない」方のために、プレゼントワインショップを設立。
技能グランプリ レストランサービス部門 全国3位
レストランサービス技能士1級
日本ソムリエ協会認定 シニアソムリエ